下町芸術祭2021 展示プログラムレビュー さわれない時代にふれること(松村大地)  2021.10.19

下町芸術祭2021 展示プログラムレビュー
さわれない時代にふれること

 

下町芸術祭は2015年から2年に一度、神戸市長田区で開催されている芸術祭だ。今年は丸山・新長田・駒ヶ林の3つの地区(*1)を舞台に、展示・パフォーマンス・講座の3つのプログラムと複数の関連プログラムが展開されている。

 

 

本文に入る前に、芸術祭についてざっくりと触れておきたい。

日本における21世紀的な芸術祭は、2000年の大地の芸術祭/越後妻有トリエンナーレを皮切りにそれもその多くが非東京圏、つまり地方で続々と興った。10年代の日本の美術の大きな流れの一つだ。通常の展覧会と異なる点として、美術館やギャラリーなど「芸術のための空間」に作品が展示されるわけではないということが挙げられる。越後妻有では新潟の里山、瀬戸内では瀬戸内海の島々が、といったふうにだ。この下町芸術祭では、神戸市長田区周辺の「下町」がフィールドとなっているが、比較的コンパクトな半都市型の芸術祭と言えよう。

 

本稿では、そんな下町芸術祭の駒ヶ林地区での展示プログラム「豊かさの触感」をレビューしていく。25組のアーティストが8つの会場に分かれて展示される。各会場間はだいたい徒歩5分以内だ。

 

先に断わっておくが、多くの作品を取り上げている。全て読む必要性はない、どんどん読み飛ばしてほしい。なぜなら、広域で開催される芸術祭そのものが「すべての作品を鑑賞する」ことが前提とされていないからだ。

 

 

地下鉄駒ヶ林駅を降りて、海沿いの道を歩いたところにある角野邸からにしよう。築80年以上の歴史を持つ角野邸は芸術祭に関係するNPO法人の事務所が置かれているものの、人はしばらく住んでいない半空き家だ。ここでは筆者を含めた5名の作家の作品が展示されている。

まず1階で初めに目に飛び込んでくるのは、作家が1か月この場所に毎週通って鉄を錆びさせることで制作された髙松威の≪ひきうける≫(2021)。2mはあるだろう作品は、畳が剝がされた板の上に据えられている。同階の松村大地≪Fall/Me≫(2021)は作家の身長に合わせて制作された作品で、鑑賞者には作品の一部を切り取って持ち帰ることが条件づけられている。

 

 

古い家特有のいささか急な階段を上がった先の小部屋には、この角野邸の持ち主である角野一平の作品群も展示されていた。その向かいの和室にはグルーガン(*2)を使って制作された網目状の造形物による赤木美奈のインスタレーション、≪粘菌座敷≫(2021)が広がる。この作品は会期内外に作家以外にも希望する者が参加型で制作された作品で、会期中、現在進行形で増殖していた。

 

 

この場あるいは来場者によって触れられることでアーティストの作品は、2階では増殖、1階では縮減や変質していく。そのさまは既に人が住まなくなった(元)生活空間であり町全体のレベルで見れば(現)生活空間である角野邸を作品がまさに引き受けることで吹き返された呼吸のごとく下町にささやかな動きを与えていたと言えるかもしれない。

 

角野邸から歩くこと数分、駄菓子屋フレンドという昔ながらの小さな駄菓子屋が展示場所になっている。パンフレットには、「※作品を鑑賞したい方は、店主にお声がけください。」とある。店主の原澤祥輝は「私はアーティストなんかじゃないけどね。」と照れながら言う。原澤が長年趣味として制作してきた木彫の面が、店舗と自宅とをつなぐ3畳ほどの空間にところ狭しと掛けられている。

 

そんなフレンドの裏手にある全会場のなかで最も大きい旧駒ヶ林保育所は1924年に建てられた近代建築だ。2013年の廃園後は空き家ならぬ空き保育所状態であった。

 

 

そんな旧駒ヶ林保育所内の展示を順に見ていこう。

この場所で私が最もインパクトを与えられたのはCBAのインスタレーション≪Virgin harmony 快楽への装置 A sort of instruments of pleasure≫だ。配管や蛇口や給湯器などが残る、「保育所の調理室の居抜き物件」とでも言える空間に展開されている。その雑然な壁面/保育所の内装の色合いのポップさに、そこにコラージュされるように配されたキャンバス群の色鮮やかな筆致が呼応する。子供がにぎやかに過ごす声が聞こえてきそうなほどだ。

その部屋を出た目の前に戸棚のようなものがあり、気を抜いていると見逃しそうだった。長田区出身・在住の濱田金芳の作品群は飲料などのパッケージをカットして貼り合わせて作られている。これらの手作業の産物は日常生活に潜むささやかな芸術行為として作られたものなのかもしれない。

 

 

外階段で2階に上がると、4名の作家の作品が展示されている。Googleマップで下町周辺を動かしている様子は映される葭村太一の映像作品と彫刻作品(その周囲にはGoogleマップの画像が貼られている)や、おおのあやかの絵画群が展示されていた。トイレから屋外まで保育所内、ほぼすべての空間に作品がインストールされているのだ。

 

 

閉ざされていた場所は作品が置かれるために開かれる。日本で芸術祭の潮流を始めた北川フラムは、その経緯について「ひらく美術」という新書を著しているが、まさに、芸術祭には場を開く力があると言ってよいだろう。(*3)

 

もう一軒、開かれた空き家の展示を書き加えてみたい。ジョブスペースラボという名の住居とその横に事務所のようなスペースがある建物だ。実は筆者が初夏に、作家としての下見で案内されていたのだが、そのときはまだ住居スペースには遺品と思しき家財道具が残されていた。そんな温度感の場所にいて、ひときわ馴染んでいたのが宮崎みよし&プラネットartsの≪夢幻物語≫(2021)のインスタレーションの一部の絵日記だ。実際に古い紙なのか古びたようにしているのかは判然としないが、鑑賞者にとってもはやこれが作家の作品なのかあるいはこの家の住民のものだったのかが曖昧になってしまうほどだろう。

 

 

最後に、少し離れた展示場所に歩みを進めよう。肉屋や八百屋、魚屋などまさに昔ながらの個人商店が並びつつも、ところどころに韓国食品の店やアジア系の言語の看板の店が点在する本町筋商店街のなかに、sobani omusubiというコワーキングスペースがあり、そこには絵画を中心に作品展示がされていた。

 

 

わにぶちみき≪”REVIVE” Closing up in two months 12/11/2019-06/01/2020≫(2021)は大きなキャンバスに柔らかい色の丸形が垂直水平に並べるように描かれており、形式が極めてrestrictiveに還元された作品だ。絵画にせよ、スクリーン上のイメージ(画像)にせよ、拡大=接近していくと細かな色や光や粒子の集まりに過ぎない。実は絵画や画像をわたしたちは適切な距離を取って接することによって認識可能になっているのだ。

 

 

 

本稿では扱いきれないが、他にも空き家だけでなく、点在する防災空地に野外設置の立体作品が展示されていたりもした。普段は足を踏み入れないという人も多いだろう。そんな、町レベルの生活空間のある種の空隙のような場所が作品で満たされていた。

 

 

展示を周り終えてみると、駒ヶ林の展示プログラムでは、靴を脱がされることが多かった。それは日常生活では当たり前の行為だが、作品を鑑賞する空間としては必ずしも当たり前ではない。日本では玄関で靴を脱ぐ。昔の日本の古民家で主人と来客がちょっと話すくらいならそれは土間だった。靴を脱ぐことは、単に違う空間に移動するという意味以上に、他者の空間に上がり込むという意味を帯びてくる。すなわち、私的空間に入り込むことと密接していると言えるかもしれない。

 

距離0の密接である「触」について再考して締めくくりたい。

「触」という字には2つの訓読みがある。「触(さわ)る」と「触(ふ)れる」だ。もちろん明確な区別があるわけではないが、私たちはこの2つを無意識的に使い分けることがある。それは、「何に接触するのか」と「どのように接触するのか」に依るだろう。例えば、汚れているものに恐る恐る触(さわ)ることはあっても触(ふ)れることは少なく、逆に繊細な工芸品にそっと触(ふ)れることはあっても触(さわ)るということは少ないように。また、「純文学に触(ふ)れる」のように、物理的には接触できない存在に対して私たちは触(ふ)れてきた。私たちだって、このレビューの冒頭で「芸術祭にざっくりと触(ふ)れる」ところから始まっている。

この展示プログラムでは「触感」「手触り」という語を軸に、非機械的な制作を行う作家が集められていた。ここでの非機械的であるとは、作家が自身の手で素材に触りながら/触れながら制作していることを意味しているだろう。たしかに作品に直接触(さわ)ることが許されているのは、基本的にアーティストや展示を作るスタッフなど専門的な人間だけかもしれない。しかし、作品、そしてその背後に広がる或いは作品を概念的に取り囲む芸術そのものに触(ふ)れることは常にどんな人にも開かれている。これは至極当たり前なことかもしれないが、ステイホームを始めとする物理的・身体的な距離を取らされている今般の私たちが、現代美術、いや現在美術を前に今一度強く思い直さなければならない感覚であるはずだ。

触れ方は想像以上に多様だ。全ての表面に触(さわ)れたとしても触(ふ)れ尽くすことはできないだろう。そんなことを考えながら、本稿を綴じようと思う。

 

*1それぞれ、山・街・海の要素に近接している場所だ。

*2グルーガン・・・樹脂製のスティックを熱で溶かして使用する接着剤の一種。

*3関連プログラム「丸山 宙を上る街道」では、使われず倉庫化していた神戸電鉄丸山駅の駅舎横の部屋が案内所として開かれていた。空き家が会場になっている駒ヶ林もこの駅舎横もどちらも芸術祭を期に開かれた場所なのだ。

 

参考

北川フラム「ひらく美術」、ちくま新書、2015年

坂部恵『「ふれる」ことの哲学-人称的世界とその根底』、岩波書店、1983年

伊藤亜紗「手の倫理」、講談社、2020年

 

筆者Profile

松村大地

作家活動のほか、展示会の企画/主催や文筆の活動も行っている。

2019年より、京都工芸繊維大学に在籍。(建築学・キュレーション)

2020年より、ウェブメディア・全国常設展評「これぽーと」に美術館の常設展レビューを寄稿。

下町芸術祭2021出展作家。

 

これぽーと リンク https://www.coreport.online/

松村HPリンク https://kiriesakkadaichi.wixsite.com/cuttingpaperart